脳脊髄液減少症と”ほどほど”に付き合うためのライブラリーはじめます。

脳脊髄液減少症とは?

サービス開始までの最新情報の配信を希望される方は、メールアドレスを登録ください。

*携帯キャリアで登録される際は、feese.jpからのEメールアドレスを受信許可設定ください。情報提供への返信がない場合は、迷惑メールなどをご確認ください。また当サイトは、本サービス開設に向けた当事者事例の収集と共有、ニーズ確認が主たる目的のため個別対応は致し兼ねますのでご了承ください。

ABOUT feese

重光喬之

feese運営者 重光喬之

はじめまして、20代半ばに脳脊髄液減少症と診断されました。この病気は、症状が目に見えないため身体的負担に留まらず、家族や友人、職場での理解が得られづらく、精神的・社会的にも追い込まれるケースが多く、私自身この10年公私に渡り、葛藤し、もがきながら生きてきました。

3年前から当事者ライターとして記事を書いていると、同病者やご家族からのメッセージや問合せ、SNS上での交流など、多くの方とやりとりをしてきました。その中には、症状緩和の具体的な方法や生きるために必要な貴重な情報、時には私に意欲を与えてくれる応援もありました。一方で、音信不通になってしまった同病者や自死された方もいます。これらの出会いと別れは、当事者同士がゆるやかにつながる機会の必要性を、私に気づかせてくれました。

これから立ち上げるのは、脳脊髄液減少症と向き合う人たちが持つ、個々の情報・実体験を共有し、各々が前を向くきっかけとなり得るWebサービスです。まずは、皆さまからの情報を集め、当事者のニーズを確認した後、現在のプレサイトを本サービスへと展開し、STEP-1、2、3へと進め、”治療後から社会復帰の狭間を埋める゛仕組みを作ります。


for feese

脳神経外科教授 篠永正道

国際医療福祉大学熱海病院

脳脊髄液減少症はとても奥深い病気です。脳脊髄液が漏れて脳脊髄液が減少するために様々な症状が出現すると考えられています。ブラッドパッチ治療はとても有効な治療法で、治療後すぐ良くなる方もおられますが、なかなか良くならない方も少なくありません。慢性化した場合は長期の治療・療養が必要になります。よくならないのは理由があり、なかなか漏れがとまらないとか、漏れは止まっても脳脊髄液が症状を改善するまでに増えないとか、脳脊髄液は増えたが脳の機能が改善しないとかが考えられます。

この病気に関してはまだわからないことが沢山あります。私も患者さんから多くのことを学ばせていただいています。患者さん同士で経験を分かち合うことが症状改善に役立つと思います。また、精神的な悩み、経済的な悩み、家庭生活、仕事等の問題や悩みを共有する場があればよいのにと常日頃考えていました。

ネットは使い方次第でプラスの面とマイナスの面がありますが、うまく利用すれば多くの患者さんが救われると思います。このwebサイトが活用されることを願っています。

ABOUT service

現在わたしたちが準備しているWebサービスについて、簡単にご紹介します。

  • 1
  • 症状緩和の工夫

    症状を和らげるための方法や薬との付き合い方などを、データベース化して似た状況状態の他者情報を参考にできるようにします。

たとえば...
  • ・激しい疼痛のときに首へホットタオルを当てて横になる
  • ・携帯電気マッサージ機を持ち歩き、痛みを誤魔化す
  • ・常に保水心掛けなるべく無理せず過ごす
  • ・転地療法で、温暖な気候でゆっくり過ごし、対人ストレスも減らす
  • ・食事・睡眠・仕事などを調整し、心身ともにストレスを減らす工夫をする
  • ・高濃度プラセンタを検討してみる
  • ・疼痛に悩まされ続ける場合医療用麻薬の処方を打診してみる
  • ・自分なりの気持ちの切り替え方、コーピング法を見つけて続けてみる。例えば、近くの自動販売機にジュースを買いに行く、人と話す、風鈴の音に耳を傾けてみる。
  • ・疼痛がどうしても我慢できない時は、他の部位に痛みを作り意識を分散させる
  • ・心身ともに疲弊し、ネガティブになっている時は、数を数えながら息を4秒かけて吸い、6秒かけて吐くを適度に繰り返す。この間は思考が停止する。(自律訓練法の一種)
  • ・冷温シャワーで自律神経の刺激をしてみる。
  • ・睡眠前はダウンライトでリラックスし、スマホなどの利用は避け、質の良い睡眠を心掛ける。
  • ・睡眠薬を試す前に、睡眠の質をよくするグリシン(ネットで1kg1000円程度)、眠気を促すメラトニンを試してみる(サプリなどより安価)
  • 2
  • 生活の知恵

    稼ぎ方・働き方、家族や友人・職場への伝え方、生活のことなどを症状緩和の工夫同様データベース化します。

たとえば...
  • ・在宅での仕事や業務委託、フリーランスなど自分で時間をコントロールできはる働き方をし、合間に少しでも横になれる機会を増やせるようにする。
  • ・起業による生活費削減(PC・スマホ購入費、家賃・光熱費・通信費等)しながら、休みたいときに休む。
  • ・症状ですぐ休む、止めるけど憎めないキャラクター作りで生き易く
  • ・我慢せず辛い時は、具体的に辛い内容を伝える
  • ・これ以上動くと、働くと翌日以降寝込む、運転が難しいなどの感覚を大切にし、無理をしない。
  • ・MRIが苦手な方は、解像度を半分にすることで検査時間も半分にしてもらうことも場合により可能。従来のドーム型ではなく、オープン型のMRIが国内の病院で導入され始めたので利用してみる。
  • ・気圧アプリで仕事や予定を調整し、なるべく負荷を減らした生活をする
  • ・ヘルプマークを入手し、社会の優しさを味わってみる(主に関東圏の地方自治体、社会福祉協議会、都営の公共交通機関で無償配布)
  • ・新幹線乗車で体調がすぐれない時には、車掌さんらに事情を伝えることで多目的室で横になれることもある。
  • ・痛みで動けないときは、段階的に出来ることを決めておく。例えば、オンラインで仕事、読書、動画…。
  • ・副次的に精神障害が発症した場合、障害者手帳を申請する
  • ・医師の紹介状があればマッサージも保険適用(可能性は低い)
  • ・自立支援法を利用し医療費を1割負担へ減額(精神科系の医療費のみ対象、問合せ先は各自治体の保健センター)、また世帯収入に応じて1割負担分も助成してくれる自治体もある
  • ・年間の個人・世帯収入を調整することで保険料の支払い減額、年金の減額・免除、住民税の免除が可能
  • ・公的融資制度の利用(総合支援資金、福祉資金、教育支援資金、動産担保型生活資金…)
  • 3
  • 当事者エピソード

    他の当事者がこの病気にどのように向き合ってきたのか、向き合っているのかをエピソードとして紹介します。

1.30代代男性・独身・一人暮らし 事故・スポーツ外傷 病歴14年(追加)

一度エピソードを書かせてもらってから2年ほど経過しました。まずは今の暮らしから。今は家の仕事を手伝わせてもらっています。週5日の午後からという勤務で決して裕福ではありませんがなんとか生活しています。身体への負担は正直いうと厳しいものになっていますが、必死に生きているのはみなさんと同じでしょうか。退職する前は病院で医療の仕事をさせてもらっていましたが、体調を崩してしまい、立て直せずに退職しました。仕事はとても好きでさせてもらっていたので落ち込みました。けれどまたよくして再出発しようと思ったのです。
正直な気持ち、心が折れてしまいました。その繰り返しなのかもしれませんが、それでも何度も挑戦しようと思うのが生きることだと思うのです。でもそれと同時に、もっとゆるやかに生きられる仕組みが必要だなと思いました。色々な人がいて、それぞれ個々にできることも違い、また一生懸命生きようとしている人がたくさんいるのです。

治療について
治療方針はまだ変わっていません。脳脊髄液減少症で有名な先生にみてもらう機会がありましたがもう時間が経ちすぎていて、漏れについては正直わからない。グレー診断になりました。今後の治療方針はBP治療か生理食塩水、人口髄液による治療になるといいます。ここは慎重に考えて、進めたいと思いました。各々悩むところだと思うので、選択技だけは確保し、色々な人(医師)と相談して決して諦めないでほしいです。

同じ脳脊髄液減少症患者の友人に言われました
私のいいところは、「沢山の苦労を経ての優しさ」と。すごく嬉しい言葉でした。私には何もないと自分で思っていたので、苦しみから少しだけ救われた言葉でした。これからも諦めず、できることをしていこうと心に決めた言葉でした。

無理をしないで
どうしても辛い時は無理をしないでください。今の日本、なんとか生き延びることができます。頼っていいんです。甘えていいんです。死なないでください。自分のことは情けないと思わないでください。どれだけ辛いか、私にはわかります。生きてください。そして伝えてください、できることはあるはずです、治ることも諦めないでください。よくなったらたくさん恩返しすればいいんです。生きてください。厳しいかもしれませんが、死なないで。それだけは伝えておきたいです。どうしてもつらくなったらただ生きているだけでいいんです。いつかあなたに救われる人がいます。

またエピソードを更新させてもらう日がくると思います。その時はまた違った気持ちになっているかもしれません、状況も変わっているかもしれません。悪くなっているかもしれないし、回復しているかもしれません。でも生きていると思います。それだけは約束したいです。

【属性情報】
発症原因:事故・スポーツ外傷
治療歴:闘病歴14年、BP3回、抗てんかん薬服用
生計・仕事:実家の家業を手伝いながら生活費を稼いでいる。
家族:独身・一人暮らし
社会保障等の利用:自立支援(医療費一割負担と地方自治体からの1割補助)

~~~~
激痛のため、薬を飲み、ただただ横になっている日々。ストレスによって自我が崩壊しそうなときは、1分程歩けば着く土手で花や草、変わらない景色を見て、自分の存在のささやかさを平等性に映しこんで耐えしのいでいました。

友人とも疎遠になり、同郷では死亡説まで出ていたと聞きます。人との関わりはほぼネット。同病者の方ともネットを介して交流するのみでした。人と会わないことは孤独ではありますが、心の助けとなりました。時として情報は毒にもなり得ます。不幸な話ばかり交わすようになってしまうと心も苦しくなってしまうのです。家族にもなるべく病気の話はせず、巻き込まないかわりに関係性は良好でした。

まだ治療途中ですが、幸いな事に、闘病前に取得した免許にて医療系のアルバイトをしています。なんとか生活できる賃金のため、このまま治療しながら働くつもりですが、寝たきりのときは貯金や両親の支援がなければ生きることはできませんでした。

結婚は完全に諦めていましたし、生々しい話ですが、性欲もありませんでした。ただ普通の家庭には憧れていたことは事実で、今はささやかながらもそんな生活を目指してみたいなと思っています。

治療歴:BP3回
服用中:ランドセンと漢方薬服用中
家族:弟との共同生活
社会保障等の利用:自立支援(医療費一割負担と地方自治体からの1割補助)

2.30代女性・独身・一人暮らし 突発性で発症 治療歴13年

脳脊髄液減少症と診断を受けるまで10年。そして、そこから3年の闘病生活。病状に起因する「痛み」そのものが人間を変えるのではなく、訪れる痛みの種類が人格を変えていくことを痛感しながら、病状によって生まれる「痛み」以外の様々な出来事を「楽しむ」ことに専念している日々です。

人と自分を比較しない。同年代よりも人の痛みが分かる。そんな年齢の取り方ができていると達観できるようになりました。心を「無」にして、自分の身に降りかかる事の全てを自分にとって必要なことなのだと言い聞かせてきたため、だんだんと他者の言葉にも動じなくなってきました。別の世界から傍観する術を覚えたのかもしれません。

私は、家族の理解が得られなかったため、月10万円、家賃6万円の中で一人暮らしをしています。ぜいたくはできませんが、体力の回復にしたがって、一般企業で派遣社員として働くようになりました。休んでいた期間を思い「浦島太郎」のような気持ちで臨んでいます。

最近、体の痛みが減ってきた一方で、心の痛みに敏感になってきました。職場では周りの目も久々に気になるようになってきました。突然襲ってくる鬱症状が病気の治りがけの故のことなのか、職場環境によるものなのか。そして、そんな自分をどこまで許したらいいのか。症状の改善の先には、また違う難しさが存在していました。

私自身、気が付いたときには友達も減っていましたが、それよりも誰と接しても気持ちが通わない自分に戸惑っています。分かり合える人はいらないけれど、少しは分かり合える人が欲しい。一人では生きていけないことを嫌という程に痛感しているので、やはり人生の伴侶が欲しい。今はそんな気持ちです。

治療歴:BP0回、食塩水点滴半年、高濃度プラセンタ月2度2年
服用中:デパス、ロキソニン

3.30代男性・独身・一人暮らし 突発性で発症 治療歴13年(更新)

頸部を中心に体中がただただ痛み、終わりの見えない日々。周囲へは、「親知らずを抜いた後の痛みが、脊髄にそって複数個所で24時間365日際限なく続く」「盲腸が破裂寸前まで炎症を起こし、手術が通常の倍掛かるまで、半年我慢できるぐらい痛む」と実体験にもとづき表現しています。
いまだに「痛みを分かってほしい」という気持ちは残っていますが、「お互いに他者のことを真に理解するのは難しいな」と納得しようとしています。

進めたいことが痛みと疲労による思考と体力の低下でなかなかできず、「できないと思われたくない」「サボり・怠けだと思われたくない」と他者の目を気にする日々でした。数年間、円形脱毛症で髪が半分なくなりました。ランドセンを服用すると2か月で元通りに。正直、痛みに比べればどうでもいいことです。

楽しい会話や美味しく食事をしていても、「楽しい」「美味しい」の前に「痛い」があり、誰かといても頭の中が痛みでいっぱいで、皆と笑っている時間もどこか遠い出来事のようです。

鬱状態になったとき、何でも自分でやろうとすることを諦めました。人に頼る、完璧を求めない、自分のペースで生きようと。自分の人生なのだから。仕事仲間に「痛みに耐えられないから、仕事を辞めるか迷っている」と打ち明けたとき、「いいんじゃないの?」と言ってくれた時は楽になれた気がします。

時間経過とともに薬が効かなくなり、期待していた治療もなかなか効果が実感できません。そんな訳で、大丈夫そうに装い続けることが破綻しました。それまでも破壊と再生を繰り返し、それなりの経験は積んできたのですがなかなかなれることもできず。。。

長年、闘病を続けていると年の功的なスキルが身につきます。
・これ以上無理をすると取り返しがつかないダメージを負うことが事前に分かる
・大事な予定に向けて調子を整え、その他の用事を諦める
・人が離れても気にならなくなる
・物欲や食欲などが穏やかになる≒興味がなくなった
基本的に期待しないというのが根底にありますが、諦めたくはありません。
十数年の闘病と多様な治療や投薬、膨大な時間とお金を使ってきたので、今更何も期待をしないのですが、新しい治療法などで周囲が急に期待をし出すとそのギャップを受け入れるのは、ハードルが高いです。新しいことや期待することに対して、ダメになることを先に恐れている感じです。

あとは、痛みで心ここにあらずであっても、玄関のドアを開けたら「痛くなさそうな自分」を自然と演じられるスキルが身に付きました。外出前に体調を整え、外出後はその倍休むことになりますが。。。良い悪いはなく、ただ体が適応したのでしょう。

 

この病気の根本的な治療はまだ見つかっていないので、現状、改善の見込みは分かりません。あえて治らないという前提で、“痛みが常にある”“色々できなくても自分は自分”と受け入れれば、少しは気楽な日々かと考え、その練習をしています。あきらめる、手放す、お願いしてみる…。

前回の投稿から3年が経過し、相変わらずの痛みと活動量の低下で、1週間のほとんどを寝たきりのこともままあり、心身ともに疲弊してきました。当初、効果のあった医療用麻薬は、効果に対して、徐々に効果が薄れ、症状とは違った思考力の低下や貼替や諸々の管理、その他副作用とを比較した結果、半年掛けて減薬しながらやめました。

定期的に通院をし、症状が改善しないことからMRIミエログラフィーを受けたところ、頸部から何らかの液体の漏れが確認されました。その後入院して、造影剤を入れてCTミエロとMRIミエでの詳細検査をしたところ、その時点では髄液の漏れは確認できず、4回目のブラットパッチではなく、生食パッチを60ml程度しました。一時的に、効果があったようで、肩と背中の痛みは軽減しました。頸部と腰の痛みはあまり変わらずで、近々次の手段を医師と話し合います。

・4回目のブラッドパッチをしても変わらないかもしれない(3度目のBPでは、3ヶ月ほど痛みや諸症状が改善)
・髄液漏れが確認できずBPをしないと治療法が手さぐりになってしまう
入院前、検査時にあまり考えないようにしてきましたが、心の奥底ではどちらに転んでもモヤモヤするだろうなと。

ここ半年痛みやストレスから久しぶりに円形脱毛症が始まり、頸部から髪は抜けはじめました。目に見える唯一の症状が、禿げなのが面白いような、情けないようなで、もっと見て分かりやすい症状ならなと思ってしまいます。

痛みがあまりに強い時は、他の部位に自主的に痛みを作って分散させたり、安いモノに当たったりし、前向きとはいえない解消法をしています。そんな私ですが、他者との関りや、仕事になってしまいますがたまの外出で、一人で部屋に閉じこもっているよりはマシだなと都度実感します。可能な範囲で近所でもいいから出掛けるように心掛けています。

本当は、仕事以外で楽しいことやのんびりしてみたいのですが、してみたいことが浮かびません。4年前の最後のブラットパッチから振り返ると、今は周囲に友人はおらず、すべて仕事仲間です。友人が離れて行ったのではなく、私に友人と関わる余力がないからです。仕事仲間と言っても半分家族のような存在になっており、彼らとのコミュニケーションが、生きる支えになっています。こう書くと重いですが、そんな彼らと、ほどほどの距離感で付き合っていけたらと思います。

たまたま、病気になってしまい
たまたま、治りにくく
社会的な状況も厳しいけれど
発症したのは仕方のないことで
できること、できないことを
判断しながら歩んでいけたらいいなと

【属性情報】
発症原因:不明・突発性
治療歴:闘病歴13年、BP3回・生食パッチ1回、抗てんかん薬服用
生計・仕事:起業し、体調と相談しながら仕事を進め、シンプルな生活を心掛ける
社会保障等の利用:なし

 

~~~~
ずっと苦しんできた痛み。他人に説明するときには、親知らずを抜いた後の痛みが複数個所で24時間365日際限なく続いているという表現を使っています。感覚的に少し伝わるかなあという印象。自分には「分かってほしい」という気持ちが少なからず残っています。

楽しい話をしていても、美味しいものを食べていても、「楽しい」「美味しい」の前にまず「痛い」がくる。誰かといても痛みで頭の中がいっぱいでなかなか一緒に楽しめず、みんなと笑っている時間もどこか遠い出来事のようでした。痛みのストレスで円形脱毛症にもなりました。

「できないと思われたくない」「サボり・怠けだと思われたくない」と他人に自分の弱いところを見せないように常に気を張っていました。痛みで心ここにあらずであっても、いつも「痛くない自分」を演じていました。薬が効かない、期待していた治療がうまくいかない。そんな背景もあって演技が破綻したのが一昨年でした。

仕事のプレッシャーと痛みによるストレスから気力の限界を迎え、半ば鬱状態になったとき、何でも自分でやろうとすることを諦めました。人に頼ること、完璧を求めすぎないこと、自分のペースで生きることを覚えました。仕事仲間に「痛みに耐えられないから、仕事を辞めるか迷っている」と本音を打ち明けたとき、「いいんじゃないの?」と言ってくれたことが一番嬉しかったかもしれません。

この病気の完璧な治療法は見つかっていないので、今後自分の症状がどうなるかは分からない。であれば、治らないという前提で今やりたいことや小さな目標を持ちながら生きることができれば、少しは気が楽になるのかなと思っています。

治療歴:BP3回
服用中:デュロテップ、ランドセン

4.40代女性・夫と子供 交通事故で発症 治療歴1年

原付バイクを運転中、前を走っていた自転車がよろけ、衝突を回避しようとし、用水路にそのまま転落しました。腰の圧迫骨折ととともに、肩甲骨から腰にかけての広い範囲で髄液漏れが発覚。治療歴は1年です。

「脳脊髄液漏出症による体幹障害」という身体障害者手帳第一種3級と、「高次脳機能障害による著しい記憶障害」で、精神障害手帳3級の2種類の障害者手帳を取得しました。ブラッドパッチ治療の際に歩行障害が出て、現在は筋緊張障害があります。痛みには医療用麻薬、うつ状態には抗うつ剤、精神的に辛いときにはお酒。破滅的だなと自覚しながらも、それらを切り離すことはなかなか難しいなと感じています。

結婚して、子育て中に起きた事故だったので、子どもたちにも症状や緊急時の説明をし、症状の理解や対策を教えています。ただ、家族との関係性、特にパートナーとの関係はなかなか難しいなと思います。私の場合、けいれん発作が起こるのですが、先日も夫と父から責められ泣きじゃくったあげく、発作で緊急入院。家族との間にいつも緊張感が走っているような感覚です。

そんな私の心の置きどころは、17年ほど同じような症状と向き合ってきた友人の存在。本当に偶然のことで、友達がいたからこそ早期発見できたとも思います。私が通っている道を、すでに通っている。壊れそうな自分、知らない治療方法、サプリメントや食べ物の活用、生活で気をつける点、たくさんの知恵を授かりました。はっきり言えば、家族よりもそのお友達としか分かり合えないことはたくさんあります。

私が救われたのは、同症状の方だからこそわかってもらえること。そして、否定をされないことでした。寄り添い合える、肯定してもらえることが、今の私には必要なのです。治療に関する情報の共有も大事ですが、感情が共有できることが大切な気がします。

治療歴:BP3回
服用中:現在デュロテップ(医療麻薬)4.2mg、抗鬱剤レクサプロ、デパス、睡眠薬ベルソムラ等、週一回ブロック注射(ポプスカイン)を首に注射
社会制度利用:障害手帳取得
その他:社会復帰と車の運転は障害の為困難

5.40代女性・夫と子供 交通事故 診断まで1年・診断後闘病2年

交通事故で負った脳脊髄液減少症。診断まで1年、その後の闘病2年。やっと職場復帰するところまできました。ただ、以前と同じようにいくことはなく、仕事で体力のほとんどを使い果たし、家のことはなかなかできません。家では体力の温存と睡眠時間の確保が優先順位の上位を占めています。

主人が病気のことを理解してくれ「やれることは俺がやる!」と言ってくれるのが心強く、一番の味方だなと思います。私にとって、主人が理解してくれたことはものすごく大きかったです。

最近は熊本地震の影響で、主人も残業が多くなりました。私自身、家に帰ると疲労困憊なので、子どもの保育園のお迎えや晩ごはんの準備を主人に手伝ってもらえない分、親に頼みたいのですが、いつもいつも頼めるわけでもありません。私が少し元気になれば、父と衝突することもあるので、頼みづらいなというところもあります。自分の周囲すべてが理解者である訳ではありません。

治療歴:BP1回、ラクテック点滴随時
服用中:トロキシン、カリジノゲナーゼ、ユベラ、エチゾラム、レキソタン、フルトラゼパム、ジプレキサ、抑肝散加陳皮半夏

6.40代女性・夫・子供 原因不明(交通事故3回、校内暴力) 診断まで最初の交通事故30年前・診断後3カ月

2015年10月、追突事故に遭い、その後の治療で脳脊髄液減少症であることがわかりました。

私の場合、30年近くも原因不明の痛みや次々に増える体の不具合に悩んできたので、その原因が判明したことが何よりうれしいと思いました。病気の原因すべてを脳脊髄液減少症のせいにしてはいけないと思いますが、どんなに痛い・辛いとドクターに訴えてもX線で特に異常がない場合、「気にしすぎ」 の一言で片付けられてしまうのは、どうしても納得がいきませんでした。

昨秋、軽い追突事故に遭い、その1か月後に死の恐怖を感じるほど容体が悪くなった時、たまたま紹介された病院で脳脊髄液減少症と診断されたことは、表現を選ばずに言えば、「ラッキーだった」としか言いようがないのです。 現在は相手の保険で通院・治療させていただいております。 保険会社さんには、私の既往症も事故歴もすべてお話ししたうえでの対応なので、 これまた、良い保険会社&担当者さんとめぐりあえたと思っています。

最近はリハビリがてら始めた水泳にハマっています。プールでの全身にかかる水圧は、頭の中の髄圧もコントロールしてくれるそうです。 その証拠に、ふらつきや頭痛・首や肩の痛みが、プールに入ると不思議なくらい治まります。 さらに痛みや精神的なストレスが、泳いでいるうちに“水に流していく”ことができるのです。この出会いもラッキーそのもの。

痛みがあると辛くて苦しいことばかりに目が行きがちですが、気持ちのイイことを見つけられたことは、私にとって本当にステキなことでした。同じ症状で苦しむみなさんも、自分に合った「気持ちイイ」が見つかるといいですね。私はラッキーでした。

治療歴:漏れの箇所が特定できず調子の悪い時に点滴、鎮痛剤
服用中:カロナール、ロキソニン、フィジオ500ml×2(点滴)

7.20代女性・独身・両親と実家 体育の授業で発症 治療歴13年

脳脊髄液減少症と付き合って13年になります。原因は、おそらく小学校の体育の授業で倒立をした時に、補助の生徒が受け止めてくれず、背中から落ちたことだと思われます。診断までは3年かかりました。

2度のブラッドパッチ治療のおかげで、同病の方の中では症状が良くなっている方だと思います。ここまで良くなったから頑張らなきゃいけないと思う気持ちと、健康な人のようにできない悔しさ、もどかしさが心のなかでせめぎ合います。

大学まではどうにか進学して卒業しました。仕事には就けていません。今年28歳になりますが、周りは結婚や出産をしています。こんな私を受け入れてくれる人と寄り添って生きていけたら幸せだな、とは夢見ますが、病気で働けない私には手に入らない未来です。夫婦は互いに支え合う存在だと思いますが、病気を抱えていると、収入面でも精神面でも相手に多く支えてもらうことになってしまいます。自分が人として、女性として魅力的に見えるのか不安しかありません。

学生時代の友人たちは病気を理解してくれているので、友人関係が続けられています。感謝しかありません。体調次第で予定をキャンセルしたり、迷惑を掛けることが多いので、これから新しい人間関係を築くのは難しいかなと思っています。ただ、友人と会えるのは元気なときだけ。その時は「元気になって良かったね」と言われますが、それは私の一部分でしかありません。

周りには同病者の方がいないので、気持ちを共有できず、心に閉まっていたのが悪かったのかもしれません。頭では分かっていても、死にたくて仕方がなくなります。ですが、家族に散々迷惑を掛けてきているので、自殺だけはしてはいけないと言い聞かせています。自殺をしない選択をすることが唯一できる親孝行と思っています。

この病気さえなければと何度思ったことか。私はなぜ生きているのでしょう。最近はこればかり考えてしまいます。皆さん一緒に幸せになりたいですね。

治療歴:BP2回

8.20代女性・独身 一人暮らし 原因不明 診断まで3年 診断後闘病1年未満

高校3年生の受験期に発症し、効果的な治療を受けられない中、なんとか勉強をして大学に入りました。現在は、欠席や休学を挟みながら大学に在籍しています。早く回復して、まずは普通に大学に通えるようになりたいです。

体や心が本当に辛い時は、誰にも助けを求められず、自分を追い詰めてしまうことを繰り返してきました。一人暮らしなので電車に乗ることもできず、病院に行けないこともあります。それでも、何とか誰かに連絡を取って助けを求めたり、体力を振り絞って片道4時間かかる実家に帰って休養したりして日々の生活を保っています。

現在付き合って1年になる彼氏がいます。体調が悪い時には看病に来てくれるなど、日頃から私を支えてくれ、何より好きな人と一緒にいられる喜びを感じています。しかし、やはり病気のせいで二人の間に困難が生じることもあります。「病気にならないと絶対にわからない」という思いや、病気によるストレスや不安から彼に八つ当たりをしてしまうことも。そんな時は、いつも自己嫌悪に陥ります。

まだ若くて仕事も一生懸命で友達が多い彼の人生の大切な時間を、病気がちで悲観的になりやすい私との付き合いに使ってしまっていいのか。別れた方がいいのでは、と彼に伝えたこともあります。衝突を何度も経験し、そのたびに多くのジレンマを二人で乗り越えてきました。今でも不安がまったくないわけではありませんが、今ある喜びや楽しみ、生きがいを自ら手離さず、それらの有り難みを伝えながら前を向いて生きていきたいと思っています。

母が脳脊髄液減少症を積極的に調べてサポートをしてくれたり、姉が治療に付き添ってくれたりと家族の理解があるので、実家に帰ったときも、病気で何もできない後ろめたさを感じずに過ごせます。家族として、これ以上ないくらい普通に接してくれるのがとてもありがたいです。

大学や地元の友人など、親しい人には「こういう状態なんだよ」と、病気のことをやんわり伝えるようにしています。学業や仕事の場面では、やる気はあるけど体がついてこないことを、具体的な症状を交えながら説明するようにしていますが、病状を伝えることの難しさを、プライベートとはまた違った形で実感しています。

この病気は目に見えない症状が多く、周囲に理解をしてもらうことがどうしても難しいです。それでも少しずつ自分から発信していくことで、道が開かれるのではないかと信じています。

治療歴:BP1回
服用中:サインバルタ、トリプタノール

9.40代女性・家族と同居 交通事故で発症 治療歴10年

車の運転中、信号待ちで止まっていたら、後ろからノーブレーキで追突されて発症しました。最初は近所の整形外科に通院していましたが、3か月経っても良くなりませんでした。友人の友人が脳脊髄液減少症だったため、運良くアドバイスをいただき、専門医に紹介状を書いてもらい、診断されました。

痛みのあまり5年間寝たきりで、親の車かタクシーの後部座席で横になって通院し、鍼灸整骨院ではマッサージと鍼治療を受けていました。BPは5回(毎回 首、腰、2ヶ所)受けました。

5回目のBPから一時的に体調が上向きになったので、まずは近所のジムで体力をつけてから、仕事に就くことにしました。いきなり働くのは不安があったので、登録制の日雇い派遣会社で体調の良い時だけお仕事をして、働くことに自信をつけるようにしました。

自信がついたら、派遣でコールセンターの仕事に就きました。瞬時の判断が大切で、間違いは許されない業務でしたので、手元に自作のマニュアルやノートを置き、パソコンの周りは付箋だらけでした。業務にも慣れた頃、扶養内からフルタイムに切り替えて勤務したのですが、案の定、頭痛や首から背中・腰の痛みなどが悪化。体調を崩し、1年ほど勤務して退職となりました。

しばらく自宅で静養してから、またフルタイムの仕事に就きました。今度もコールセンターの新規立ち上げの仕事で、非常にやり甲斐があったのですが、新人の研修担当になるなど、責任が重い業務でした。1年半程でやはり体調が悪化し、1カ月休職しましたが、頭も身体もついて来ず、退職を余儀なくされました。 少し休憩したらまた働こうと思っていましたが、体調が思わしくなく、気付けば3年間無職で現在に至ります。

5年間寝たきりの間はひどい抑うつ状態で、毎日大量の睡眠薬を飲んでも、痛みでせいぜい3〜4時間しか眠れない日々でした。もちろん、「死」は常に私の脳裏にありました。幸い私は友人関係に恵まれていたので、自宅までお見舞いに来てもらったり、電話で辛い気持ちを伝えたりして、なんとか自分を保とうとしました。

父は病名が分かるまで、ムチウチなのに大げさだと言っていましたが、診断されてからは、家族も病気を受け入れて私の体調優先の生活をしてくれました。夜中に希死念慮に襲われたときには、泣きながら母を起こして話を聞いてもらうなど、特に母には感謝しています。

事故に遭う前からお付き合いしていた人とは、脳脊髄液減少症になっていなければ、恐らく結婚していましたが、体調が良くなって働き出してから、色々あってお別れしてしまいました。その後もお付き合いした人はいましたが、やはり私の体調が原因で、結婚には至りませんでした。

子供が大好きなので、出産をしない人生なんて想像もしていませんでしたが、30代前半という結婚・出産を一番考える時期に発症したせいで、悲しいことに諦めざるを得ない年齢が近づいています。

今は体調と物忘れが激しい脳を何とかして、また短時間勤務の仕事から始めたいと考えています。

治療歴:BP5回、食塩水点滴5年、鍼とマッサージ治療
服用中:ロキソニン、ムコスタ、レクサプロ、リフレックス、セロクエル、ユーロジン、マイスリー

10.30代女性・夫 落下事故で発症 診断まで11カ月・治療歴6年

診断まで11ヶ月、診断後の闘病は6年になります。闘病中は激しい苦痛に耐えることに精一杯で、前向きなことは一切考えられませんでしたが、カウンセリングを利用して「遠慮なく嘆く」ことをしていました。つらさを言語化したり文章化したりすることで、気持ちが楽になる気がしました。

初回のBP後に、寝たきりでない生活が出来るようになり、失った人生(仕事と人付き合い)を立て直すべく、持っていた資格を活かして少しずつフリーで仕事を始めました。また、病気に理解のあるパートナーがほしいと思うようになり、意識的に外に出る機会を増やしました。

結婚相手とは寛解期に知り合いましたが、早い段階で病気の説明をして、生活するうえで注意事項を抱えていることを話しました。病気が良くなってきているのならと、病気のことはあまり気にかけずに結婚を決めてくれたようですが、結婚後にも悪化の波があり、BPをするに至るなど、夫とその家族にはかなりの負担をかけているという思いがあります。体調の悪化により、仕事や将来の展望については足踏み状態です。子供については、一時的に考えるのをやめています。

夫婦の共通意識として、長い目で見て体調が悪化しない生活をすることを心がけています。現在は家で療養中のため、日々の仕事は家事がメインです。食洗機、衣類乾燥機、電気ケトル、ルンバなとの電化製品をできるだけ揃え、家事にかかる体力を極力減らし、買い物は生協やネットスーパーの宅配サービスを利用しています。お金はかかりますが、少しでも体調を崩さないこと、寝込まずに生活できることを優先しています。

友人や知人には、事故の後遺症でしんどい時があるという伝え方にとどめ、あまり病気のことは話題にしません。家族以外に「しんどい、できない」と伝えることが心理的に難しく、人付き合いが狭まります。今後は、もう少し“病気ありきの自分”で人と関わっていきたいと考えています。 治

治療歴:BP2回、生食パッチ・星状神経ブロック注射・生理食塩水点滴を不調時に適宜
服用中:イブ、バファリン、リーゼ、マイスリー
社会制度利用:障害基礎年金

11.30代女性・一人暮らし 突発性・治療歴6年

【診断前】
2010年の突然の頭痛が発端でした。過去に髄膜炎を経験していたのですが、その際の痛みに似ていたためすぐに大学病院で受診しました。医師との相談で髄液検査を受けたところ、髄圧が通常の半分以下だったため「低髄液圧症」と診断され、そのまま緊急入院することに。2週間ほど点滴治療を受けていましたが良くならず、何度目かの検査時に第一頸椎と第二頸椎との間に髄液漏れの所見が見つかりまして、同大学病院で頸椎ブラッドパッチを受けました。

【職場復帰】
ブラッドパッチから一ヶ月後には、派遣社員としてCADオペレータの業務をしていた職場に復帰しました。当時、頭痛は何とか生活できる程度まで落ち着きましたが、耳鳴り・頚部の強張りは残っていました。そのため、復帰後当初は時短勤務を申し入れて次のような勤務時間で身体を慣らしていきました。
一ヶ月目・・・6時間労働
二ヶ月目・・・7時間
三ヶ月目・・・8時間

その期間であっても、きつい時には空いている会議室などで身体を横にさせてもらっていました。職場の方からは、私が元気そうに見えることもあり理解が至らないお言葉をもらうこともありました(例:「もっと頑張れ!」「甘えてるだけでは?」など)。
なので、職場での心構えや工夫として次のことを気をつけました。まず、「自分にできること、できないこと」を明確にすることです。そして、症状が出てしまったときには、心苦しいながらも、絶対に身を引くという心がけです。

また、病気・症状についてどうしても理解してもらいたい場合には、『脳脊髄液減少症を知っていますか?』『怠け病と言われて』といった書籍や漫画類の一部を実際に読んで頂きました。特に漫画は読みやすいせいもあり、理解が進むようです。厳しいお言葉に対しての最終的な対応としては、励ましのお気持ちだけ受け取り、後はスルーさせて頂いています(笑)

【工夫】
身体のケア・予防方法として、次の3点に気を配っています。

まずは「水分補給」。1日に1.5~2リットルの水分を採るように意識しています。飲み物は、OS-1(経口保水液)、ルイボスティーやほうじ茶などです。(カフェインは利尿作用があるので、飲み過ぎないように成分に気をつけましょう!)。

次に、「睡眠時間」です。私は6〜8時間以内が良いようなのですが、時間だけでなく睡眠の質を高めるために、
・寝る1時間前にスプーン1杯のハチミツをなめる
・ふくらはぎのマッサージ
といったこともするようにしています。

最後に、「外出時の注意」になりますが、人が多い混雑した場所に出かける際にはヘルプマークを持参しています。リュックの真ん中といった目立つ場所に付けています。

症状の対処としては次のことを実践しています。
頭痛がある時には、とにかくすぐに横になり眠ることです。酷い痛みの場合には、近所のクリニックで点滴を受けれるように主治医に手配してもらうようにしています。そのほか、身体の痛み・強張りを感じた時には温めるために、こんにゃく湿布を貼ったり、先ほどの和みのヨーガまたは整体などで身体を動かします。

【薬について】
以前は、後述の薬物を服用してきましたが、脳髄の痛みに対して通常の鎮痛剤はあまり効果がありませんでした。むしろ身体の倦怠感が増したため、薬以外の対処法を探すようになりました。模索するなかで3年前に出逢ったのが「和みのヨーガ」というヨガで、身体と心が温まり痛みも減っていきました。結果、現在は薬をほぼ服用していません。

【現在の状態】
発症から7年目となり今ではヨガのインストラクターを始め、発症以降諦めていたダンスにも挑戦できるようになってきました。しかし「完治したのかなぁ?」と思っていた矢先の昨年末に、立ち上がれなくなるほどの頭痛に見舞われ、一ヶ月ほど仕事を休みました。

幸い再び復職できていますが、再発の不安は今も残っています…。しかし、この身体を受け入れ、わずかなサインも逃さないように気を配って生きて行こうと思っています。

治療歴:BP1回
過去の服用:ロキソニン、ボルタレン、SG、アンナカカフェイン等の鎮痛剤、デパスなどの睡眠導入剤、ロキソニンテープなど湿布薬

12.60代男性・妻 2度の転倒で発症 治療歴5年

6年前に登山中に転倒し、強度の逆流性食道炎を発症。7カ月後に凍結した路面で再び転倒し、首の痛みと手足の痺れで動けなくなりました。整形外科に1カ月入院した後、脳脊髄液減少症を自己申告し、脳神経科に転院。シンチ検査により診断されました。その後、患者会に相談して病院を移り、現在に至ります。

励みになるのは、Twitter、英語の勉強、写真でしょうか。Twitterは会話を楽しむのはもちろん、同病者との情報交換としても活用しています。英語は勉強すればするほど、 映画を原語で見られるようになったり、自分の能力が高まる喜びがあります。写真は、芸術的表現を試みる楽しさがあり、Facebookに投稿することで仲間ができたり、写真への反応をもらえたりすることが励みになります。病気のために離婚や自殺を考えたこともありましたが、これらの楽しみや妻の存在のおかげで、踏みとどまれました。

以前は建築家として自営しており、現在は仕事ができる体になったとアピールして営業を開始しましたが、なかなか信頼を取り戻すのは難しく、苦戦しています。収入が減ったことで妻に負担がかかり、苦しく思っています。早く仕事を軌道にのせたいです。

治療歴:BP4回、アートセレブ1回
服用中:リボトリール 、グランダキシン、グッドミン、レルパックス
社会制度利用:障害年金、個人年金

13.20代女性・家族と同居・交通事故で発症 診断まで5年、治療歴9ヶ月

5年前に交通事故に遭い、今年1月に凍結した路面で転倒して症状が悪化しました。転倒の翌月、脳脊髄液減少症の専門医にたどりつき、3月に検査。脳脊髄液減少症と診断されました。診断の翌月に1回目のブラッドパッチ治療を行い、7月に2回目のBPを行った後、現在自宅で療養中です。

当初はどこの病院に行っても原因が分からず、精神的なものだと言われていたので、自分が弱い人間だからだと諦めていました。家族や友人からも厳しい言葉を言われたり、怠け者って思われたり、距離を置く友人もいました。自分も家族や友人に頼り過ぎたり、振り回してきたことも沢山あって、迷惑かけてきたので仕方ないですが、複雑でしたね。

病名が判明した後も、症状は軽減・悪化の繰り返しだったので、改善した日はありません。症状が軽減している時も薬、針治療、運動などで症状を抑えて我慢していました。身体的、精神的に辛い時は家から出られず、現実逃避をしていました。とことん落ち込んで症状が軽減した後は、「このまま終わりたくない」「前に進むしかない」って自分を奮い立たせてなんとかやってきました。仕事をしないと生活していけないですから。

周囲と同じように恋愛はしていました。彼氏もいましたし、結婚も考えた事もありました。精神的な薬を飲んでいることは、付き合う前に言っていましたが、いざ症状がひどい時に受け入れてくれる人は少ないです。ただ、自分も甘え過ぎた部分もありますし、相手も幸せになる為なので、責める気はありません。

今は特に症状が悪くなり、この状態を受け入れてくれる人が現れるか分からないですし、結婚出来るかも不安ですが、まだ結婚は諦めてはいません(笑)。ただ、今は体調を少しでも良くして、働ける状態にならないと厳しいですね。痛みで彼に当り散らしてしまい、お互いしんどい思いをするので。

最後に助けてくれるのは、やはり家族です。今でも色々ありますし、病気を理解してもらうのは難しいですが、治療や生活出来ているのは家族のお陰です。以前と変わらずに接してくれる友人には本当に感謝しています。それでも、ネガティブな発言をしてしまうことが多く、周囲との付き合い方に悩むことがあります。

もし症状が改善したら、どのように人生を立て直すかは現在模索中です。病気のことは、同じ境遇の人にしか理解できないと思いますが、温かく見守ってもらえたらと思います。

治療歴:BP2回、人工髄液点滴2回
服用中:なし
社会保障・福祉サービスの利用:なし
生計・仕事・在学:無職

14.30代女性・家族と同居 業務災害にて発症 治療歴9年

診断までに2年。EBPは4回行いました。発症当時お付き合いしていた人には嘘つき呼ばわりされフラれ、その後も数人と付き合ったが、予定が組めない(体調で)事、常に不調を訴えたりすることで去っていく人ばかりでした。

周囲からも、いついつ会おう、遊ぼう等、先の予定を組むことが全くできなくなりました。ドタキャンしてしまうことが多々あり、自然と疎遠になっていったりもした。認知度が低いがゆえに理解を得られず、職場でも厄介者扱いだった。家族にも伝わらず、気のせい、考えすぎ、など最初は本当に辛かった。

一番辛かった時は保てず(今でも不調が続くと絶望感が襲ってくる)死ぬ力はないので、常に消えたいと思っていた。少し動けるようになった時に衝動的にODをし、冬の海に落ちた。漁港だったこともあり偶然見かけた漁師にタモで救われて「死ぬで!ねーちゃん!足元きーつけな!」と大笑いしながら言われた事が何故か胸に刺さり、それ以降、少しずつ自分に向きあえ始めた気がする。

主人と出会った時は、付き合う前に全てを話した。やめておいた方が良いという意味で。主人は仕事柄、色々な人と接するし、その病気は前にテレビで見たことあると言ってくれ、初めて理解を示してくれた。
だが、それもいつまで続くかわからないと疑心暗鬼になっており、私自身が信じることが出来なくなっていた。現在は夫と二人で生活しています。

お母様より
初めてのEBP後から、blogを書き、情報を発信していたようでした。多くのテレビ局、ラジオ局へメールを送り、脳脊髄液減少症を取り上げて欲しい等といった訴えをしていたようです。
当時、娘は『第2の私はつくらんでいい』とよく言っていました。親の私にも分からないほど辛い思いをしてきた2年間。『何か意味があるんかもしれん』と自分自身を奮いたたせ、寝たきりでもできる携帯電話を使って世に訴えていた様に思います。
テレビ局の密着取材を受けた際も『説得力があるのなら』と実名、顔出しを選択し、その後はHP等からの依頼で数回公演もしていました。とても理不尽な形での発症で、本人は今でももしかしたら苦しい胸のうちを抱えているかと思いますが、それを押し殺し、一人でも多くの人にこの脳脊髄液減少症を知ってもらいたい、早期発見、早期治療へ繋がるようにと使命感を持ったように奮起しているように見受けられます。そうすることで自分自身を保っているようにも見えます。

発症要因:業務災害にて発症(右仙腸関節離解による)
治療歴:EBP4回
服用中:(現在妊娠中のため)ユベラ、メチコバール、五苓散、ソリタ顆粒
社会保障利用:診断前労災保険、疑いが出た途端労災打ちきり、その後から現在まで社会保障の利用なし
生計・仕事・在学:無職(専業主婦)

15.30代女性・シングルマザー、幼少時の遊具事故 診断まで14年・治療歴4ヶ月

11歳頃、丸いブランコ式の6人乗り遊具を満員で外から押し(漕いで)いて、足が滑り、前から来た遊具と接触、後ろに身体が折れ曲がる事故。これが原因で後に腰痛分離症となる。(症状は特に出ず)22歳の時に会社で階段から落ち、骨折。腰痛分離症の手術をする。ボルトで硬膜に穴が開く(髄液漏れの確認あり)ここから脳髄液漏出症となるがまだ診断されない。後に医療ミスと言われる。
2016年、10月視力低下、味覚障害。2017年、4月手のしびれ、目眩、吐き気、左目眼球圧迫感、5.6月は検査や転院であちこち回る
、7月髄液漏れの検査の為生食パッチの際に、脳髄液の圧が普通の人の半分しかないと言われた。MRIとCTを撮り、脳髄液漏出症と診断される。(腰の手術をした部位から)骨と、硬膜、神経の変形があり手術で開くしかないと言われたがリスクを考えてBPする事に。1回目は癒着と痺れが悪化したため上手く入らず。退院後悪化。2回目、尾てい骨、腰から入れ、少し入り血圧が少し上がる。痺れはそのままだが、倒れることは無く今に至る。

原因が分からない時に怠けている、又は体調が悪いのもいい訳だと言われた。職場や友人と離れ、家族しか関わりは無くなったが無理をせず、程々に動くようにしています。人と比べる事で、悲観したり悩むのは辞めました。この病気になった理由で泣いてないのでそこだけは自分を褒めています(笑)入退中に沢山の涙や症状の違いを見てきたので、色々学びました。いい経験です。
将来は家を建てたり、沢山旅行もしたいけれど、いい意味で諦めるようにしました。ただ常に趣味や、やりたい事は見つけるようにはしています。

1人で我慢せず、看護師さんや家族に症状を伝える。「今日は動けない」など解って貰う努力をする。無理に家事をしないといけない時は休み休みやる。感情的にもなるが、逆にそれでいいとも思う。ストレスを溜め込まない。SNSで呟く。共有する。
趣味に没頭する。ドラムのスティック回しをひたすらする。

今考えると、離婚原因でもある漏出症の症状(低血圧過ぎる、疲れやすい、うつ、家事に時間がかかるetc…)によるDVなんですが。早めに解っていれば対応出来たのに悔しい所はあるんですが。再婚は娘の事もあり、考えていません。
数年前まで正直彼氏は居ましたが、難しい問題です。 将来的には寄り添う人は欲しいです。今は…とりあえず遊ぶ元気が欲しい!

家族、一緒に居る人、職場の人には病気の症状を伝えている。疲れなのか症状なのかのラインが不明な時はやはり無理をしてしまう。 早めに漢方薬や水分を摂るなどして予防している。

発症要因:子供時代の遊具での接触事故
治療歴:BP2回、生食パッチ1回、
服用中:五苓散(漢方薬)、ソリタ-T配合顆粒 3号、Eve(市販薬) 二ポラジン
生計:パート社員8時間勤務10月より復帰、事務と調理
社会保障:母子手当 月4万円、医療費 一日500円の上限

16.30代男性・妻と同居 遊具からの転落 診断まで16年・診断後闘病14年

直接的な発症要因の断定はできませんが、子供の時に遊具から転倒したことではないかと考えています。大学のころより体調が悪化し寝たきりになり、20代の時期は、どうしようもない、苦しさと、コントロールできない激情が溢れてきて両親に当たり散らし、自身の存在が家庭を破壊していました。同時に、20才の時に出会った現在の妻の存在が、病気に挑み続ける、原動力になりました。

ブラッドパッチは、23才〜27才まで四年間の間に、3ヶ月おきに打っていた記憶があります(22〜27歳は寝たきりの生活を経験)。腰、背中、頸と場所をずらして打っていました。私の場合は、打ってもあまり効果が得られなかったです。RI検査ではかなりの量が漏れていましたが、症状が、BPで良くなる事も、悪くなる事もなかったので、30回近くになって余り打つべき治療ではない事を、医師から言われ治療は断念しました。
他は、20才ぐらいまでは、各種病院巡り、鍼治療や、カイロ、漢方、健康食品、心療内科と、この病気の人が大体いく所に行っておりました。唯一、プラセンタは、健康増進に割と良い気がしました。

哲学的アプローチによる治療にしてから、症状が年々回復に向かっていきました。自分自身が変わった時に環境も変わってきて、家族や周囲との人間関係も良くなっていった。自立への願望が高まり、現在、保険代理店として夫婦二人で暮らしていけるまで、回復しました。

身体的、精神的に辛い時は信仰による、自身の自律が一番効果的でありました。また妻の愛情と、自身も信仰を通じ、他者に貢献する中で、充実感を感じ、自身の苦しみに余り捉われにくくなっていきました。

信仰を持ってすぐではないが、少しずつコントロールができるようになり、不思議とそれに伴い歩けるようになったり、食事も固形物が食べれる様になった。生計を独立してからは、特に両親に感謝できるようになり、家族との関係は大変良好になった。現在は、身体を治し、子供をつくれる身体になりたいと祈っている。

発症要因:遊具からの転倒
治療歴:BP30回、20歳までは様々な治療を経験(各種病院巡り、鍼治療や、カイロ、漢方、健康食品、心療内科、プラセンタなど)
服用中:なし
生計:保険代理店
社会保障・福祉サービスの利用:過去に障害年金の受給、仕事ができるようになったので自主的に停止

17.40代男性・一人暮らし 原因不明 診断まで1年半・治療歴2年

私は、スポーツ好きで、サッカーもしていて、観戦も楽しみでスタジアムまで通っていました。2013年10月にインフルエンザワクチンを接種(因果関係は不明)してから1週間動悸が続き、2週間後のサッカー観戦後に突然倒れ6カ月間寝たきりになりました。

確定診断がつかず、行政の支援を全く受けられず、ヘルパーさんやストレッチャー付きの介護福祉タクシーを自費で契約し移動手段として利用していました。制度の中でしか動けない行政の仕組みを痛感しました。その後、関西九州関東の病院を回って、ようやく確定診断に至りました。この間、診断がつかないもどかしさ歯がゆさをかなり味わいました。

仕事は、以前していた設計や手仕事的なデザインが握力や目の調子で難しくなり、体調にも波があるので、細かなデザインよりも施工を含める請負い等を増やしました。自分のようになかなか診断が付かない患者は沢山居ます。例え診断がつかなくても行政は支援していくべきだなと考えています。

まだ人生を完全に建て直せていませんが、闘病経験や以前の仕事を活かし、障害者やその家族、また世の中に役に立つ仕事を立ち上げたいです。精神面では、自分が寝たきりの頃に、ガンの闘病をしていた友人がいました。お互い、いつも励まし合ってました。
家族に対しては、闘病への理解の無さから距離を置かざるえませんでした。友人に関しても、心に余裕が無くなった自分からは多くの友人が去りました。もちろん残ってくれた友人も居ました。通院時に送迎してくれた友人も。彼らとは、より距離が縮まりました。理解されていることが一番心強いです。

また、闘病を通して知り合った患者友達も増えました。以前の自分のように辛くて、パニックになってる患者さんには落ち着くようアドバイスもしています。渦中だと、自分自身が見えなくなり、なぜ、友達や社会が、自分から離れて行くか解らなくなるのを実感しました。溺れている者同士だと助け合えないと思うんです。
通院時の旅先でも様々な友達が出来ました。飲食店や商店、宿舎など、出会うチャンスが広がりました。もちろん歩けるまで回復したお陰です。日々、ご縁に感謝しています。

障害者だからと恋愛や結婚に消極的になったり諦めることは全く無いと思います。病気になる前も自分は自信がなかったり、経済的な事とかで距離を取っていました。今では、病気を通じてやりたい事をもっとしないとと自分自身を開放していこうと生きています。

発症要因:原因不明
治療歴:BP1回、生食パッチ5回 アートセレブ1回
その他:リンゲル液、ポタコール輸液3.5年、半夏白朮天麻湯(煎じ)
社会制度の利用:国民年金の障害年金1級(高次脳機能障害)、精神障害者手帳3級(高次脳機能障害)、自立支援
生計・仕事・在学:デザイン・建築の自営業

脳脊髄液減少症とは

2000年頃研究が始まった脳脊髄から脳脊髄液が漏出・減少する疾患です。外傷性または原因不明により発症し、主要症状は起立性頭痛ですが、その他にも全身倦怠感、めまい、吐き気、自律神経異常、免疫異常、睡眠障害など患者により様々です。
治療法は研究段階ではあるものの、診断・治療の遅れは慢性化を招きます。長期化するほど緩解率が低下するとされます。症状によっては就労が難しく、経済的に困窮し、制度のはざまで苦労される方も多数います。

発症要因

病気を取り巻く
社会環境

Wikipedia:脳脊髄液減少症とは

Facebookページ:日々の進捗情報

硬膜外自家血注入療法実施病院(2015年10月時先進医療実施病院)

北海道医療法人社団 函館脳神経外科病院
北海道医療法人明日佳 札幌宮の沢脳神経外科病院
北海道札幌医科大学附属病院
北海道医療法人一仁会 南札幌脳神経外科
福島県一般財団法人脳神経疾患研究所 附属総合南東北病院
山形県山形県立中央病院
宮城県独立行政法人国立病院機構 仙台医療センター
新潟県新潟市民病院
東京都医療法人順和会 山王病院
東京都日本医科大学付属病院
東京都独立行政法人国立病院機構災害医療センター
埼玉県深谷赤十字病院
神奈川県学校法人北里研究所 北里大学病院
神奈川県公立大学法人 横浜市立大学附属病院
栃木県独立行政法人国立病院機構 栃木医療センター
群馬県前橋赤十字病院
静岡県国際医療福祉大学熱海病院
静岡県総合病院聖隷三方原病院
静岡県浜松医療センター
静岡県焼津市立総合病院
愛知県愛知医科大学病院
愛知県豊橋市民病院
愛知県名古屋市立大学病院
愛知県独立行政法人地域医療機能推進機構 中京病院
石川県金沢医科大学病院
富山県国立大学法人富山大学附属病院
福井県福井県済生会病院
奈良県奈良県立医科大学附属病院
和歌山県角谷整形外科病院
兵庫県医療法人明仁会 明舞中央病院
岡山県川崎医科大学附属病院
広島県独立行政法人国立病院機構 福山医療センター
島根県松江市立病院
香川県香川県立中央病院
高知県高知大学医学部附属病院
福岡県福岡新水巻病院
福岡県産業医科大学病院
佐賀県佐賀大学医学部附属病院
長崎県日本赤十字社長崎原爆病院
宮崎県宮崎大学医学部附属病院
熊本県荒尾市民病院
熊本県熊本機能病院
大分県大分県立病院
沖縄県医療法人豊誠会 牧港クリニック
沖縄県琉球大学医学部附属病院

*2016年4月の一部保険適用により厚労省での先進医療実施病院の情報提供は終了

READYFORのお礼

「feese」は、2015年12月4日~2016年1月27日の期間で実施いたしました。 クラウドファンディング(READYFOR様)によって、制作のための費用を集めることができました。皆さまからのご支援がなければ、「feese」をリリースすることはできませんでした。

ご支援・ご協力をいただいたみなさまに、この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。また、みなさまへの感謝を込めて、クラウドファンディングを通じてご支援いただいた方々のお名前を以下に記載させていただきます。

網谷勇気、安斎賢三、生きがい、石垣好和、岩野範昭、かとうよしゆき、佐藤謙介、佐藤秀雄、白柳智美、林冬彦、樋口裕司、平山裕三、藤本海、布施透樹、松本広海、もりれいこ、みってぃん、山本早紀、りゅういち、渡部淳、hidekatsu、makie、NPO法人CRファクトリー呉哲煥、S.F、連絡がつかない方のお名前1名分未記載、他48名(敬称略)